競争はノイズか
「マーケットは間違えない」が資本主義経済の原則である。
不動産市場はメルカリや蚤の市とマーケットの構造は何ら変わりがない。内容の割に「高い」と感じられたら売却まで時間がかかる。逆も然り。「見えざる手」によって自動的に価格が調整され続ける。売り出して半年以上「うんともすんとも言わない」場合は方針を検討した方がいい。市場に出せば出すほど、マーケットに存在をおぼえられてしまう。「あれ、ずっと市場に出ているね」というのは、購買を踏みとどまらせる最大の理由になるから危うい。
売れ残ると、モノの価値を毀損する可能性がある。
高額な買い物は強烈な理由が偶然にも重なって目の前に提示されなければ身動きが取れなくなる。「一生に一度の買い物」「今だけ限定の価格で」「誰もが羨むあの物件を」「このエリアでほとんど出てこないこんな物件を」と畳み掛けられるから勇気が出てくる。情報がネットで手に入るからこそ、まやかしの「限定」は化けの皮がすぐに剥がれるのである。
インターネットの力は恐ろしい。販売されている期間(どのくらい売れ残っているか)、類似するモノの価格(この金額はどれほどに妥当か)が、あらゆるデータベースで可視化されている。個人のリテラシーが高い現代において「目利き」は過去の遺産である。どんなものでも、中古であっても、どのくらいの価格がつけうるのか簡単に判別できる時代になってしまった。
一括査定はトリックスターである。不動産会社ではないが、不動産会社を競わせることができるプラットフォームとして機能している。エンドユーザーからすれば不動産会社相手に優位に立てるのだから気持ちがいい。いまや(不動産のみに関わらず)査定という行為は、引越し会社の見積もりと同じ程度のものに成り下がった。
「高い査定を(不動産会社から)勝ち取るため」のエンドユーザーに対する発明であり、その「不」を解決した運営会社の飯の種である。無料の顔をして顧客情報を仕入れ、裏側で情報を売却する。「不動産会社に騙されない」というドラマを演出する脚本であり、最高の助演である。
だが一方で「高い金額を設定してしまえば、振り向いてもらえる可能性が高い」ことを(薄々勘づいていたが)あらためて認識することになった宅建業者も狡猾である。「とりあえず、高い金額をつけてしまう」のである。不動産の査定とは、売れるかわからないが「これぐらいの金額かしら」とエビデンスをもって推量することだが、このエビデンスも「幅がある」のだから難しい。
マーケットと異なる場所で競争する、その歪みにユーザーはどれほど耐えられるだろうか